灰色の染まった雲の天井から涙がぽつりぽつりと零れ落ち始めたのは夕暮れ刻だった。
朝の天気予報でも、夜は雨でしょうと言っていた。
それでも大して降る様子もなくて、午後の授業が終わってからもまだ降り始めていないため予報は外れたな、とぼんやりと思っている時に窓に水滴が一本線を描いていることに気が付く。
しかし学園校舎と寮は近いため、多少の雨であれば特に問題もないだろう、とルルーシュは思う。
手を止めて空を見上げている彼をミレイが「サボってないで作業する!」と声を張り上げる。
生徒会室にはミレイ、シャーリーにリヴァル、ニーナが揃っている。カレンは病院があるからと言っていて今日は顔を出していない。
もう一人の生徒会メンバーであるスザクはさきほどまでここにいた。
が、決まった時間になると軍の仕事があるからと言って申し訳無さそうにしていつも帰る。
それを引きとめることが出来れば最善なのだが、それが出来なくてイラついているのはルルーシュだ。軍を辞めて欲しい、という気持ちはこれからもずっと変わらない。
どれだけスザクがそこを大切にしていようが、帰る場所が軍であることを許しはしなかった。
たくさんの水滴が窓ガラスを流れ、叩く音が強くなってくる。
スザクがここを出たのは先刻。
濡れずに行っただろうかと、頬杖をついて思っていればまたミレイの小言が飛ぶ。
ルルーシュは最後のプリントに生徒会の印を押すと、束になった紙を整えて茶色の紙袋に入れる。その後はこれを職員室に持っていけば今日の作業は終わる。
紙袋を脇に抱えて席を立つと、「それじゃあこれ、持って行きますよ」とメンバーに告げて部屋を出て行くことにした。
生徒会室はいつだって賑やかだ。
サボっているのはむしろ生徒会長であるミレイが一番多いんではないだろうか、と思っていても誰も口にすることはなかった。
それは人柄が成すことなのか、後々の報復が怖いからか。
どちらとでも取れるな、とルルーシュは苦笑した。



降り出した雨のせいでグランドから聞こえてくる掛け声はなくなってしまい、注ぐ冷たい雨だけが閑散とした音を散らしている。
渡り廊下に差し掛かると、学園の校門へと続く広がる校庭と道が視界に入った。
誰もいない雨だけの世界に、ルルーシュはふと足を止めた。
学園の出入り口から少し先で雨だというのに佇んでいる生徒を見つけたからだ。
常識的に考えて、雨が降り始めたら傘をさすか傘を持っていければ走って帰るか屋根がある場所に身を寄せるだろう。
しかしそこにいる少年は、じっと動かない。
ルルーシュはまったくどこのどいつだ、と紫色の目を細めて姿を確認しようする。そしてその後ろ姿が知っている者と重なって、眉を顰めた。

(スザクの奴、何してるんだ)

よく見てみればそれは先ほど別れたスザクのようだった。笑ってそれじゃあまた明日、と言っていたスザクだ。いつからそんなところでじっとしているのだろうか。
スザクの雨に濡れる姿に、不安になる。
まるで雨が上がったら消えてしまうのではないだろうかと思わせるように儚げで。彼がとても小さく、見えた。
ルルーシュは職員室へ行くのをやめて、雨の当たらないぎりぎりのところで外に出て行く。
その間には雨足は強まっていき、スザクが少しだけ霞んだ。

「スザク!」

今、自分に傘があればそこまで行くのが生憎持っていない。一本ぐらい誰かが忘れてもいいのにこういう時に限って必要とするものはないものだ。

「スザク!」

二度大きく名前を呼んでもスザクが振り向くことはなかった。
忌々しい雨のせいで声が掻き消されてしまっているんだ。
地面に落ちて跳ねて、また新たに滴が落ちてきて飛沫する。それが次第に重なって、水溜りを作り熱する世界を冷やしている。
ルルーシュは舌打ちをして、もう一度腹に力を込めてスザクに気付いてもらおうと呼ぶが、まったく聞こえていない。
別にそんなに離れた場所でもなく、届いてもよいのに声なのに。
仕方なく、手に持っていた書類の入った封筒を雨に濡れないようにその場に置いて、ルルーシュは無数に零れ落ちる滴の中に飛び出した。

「スザク!」

するとようやく人が駆け寄りって来る際の水が跳ねる音と声に身体が震えて、振り向く。

「ルルーシュ?」

緑色の目を丸くして、雨の中を嫌そうにしている彼を見つめる。
ずぶ濡れのままなのに、まったく気にしていない素振りだ。同じ黒いアッシュフォードの制服が水分を大きく含んでしまっていて重そうにみえる。
それに栗毛色の髪の毛だっていつものようにふわふわとくせ毛に跳ねておらず、毛先から滴を垂らして元気がなかった。
どれぐらいここに突っ立っていたんだ、と怒りたくなるほどにスザクの全てが濡れている。

「傘もささずに何してるんだこのバカ、」

ルルーシュは早く屋根のある校内へと入りたくて、早口でそう告げた。
どうしてそんなに不機嫌なのか、といわんばかりにスザクの瞳がきょとんとする。

「別に、何も」

彼とは反対に、スザクは笑って答えを返す。
何も、というにはあまりにも不自然な光景なのにそれでもスザクは「別に」と唇を緩く上げる。
耳元ではずっと鳴り響く雨が打ち付けられる音。

「お前、どれぐらいここにいるんだ」

「えっと、雨が降ってきてからかな」

笑顔で答えるものではないことに、ルルーシュはあからさまな溜息を吐く。いい加減この場から離れないと、自分までもスザク同様ずぶ濡れだ。
スザク、まず戻ろうと手を取ろうとすれば彼がじっ、と空を仰いでいることに気付く。
それはとても愛しそうで、虚無を映した苦渋の色を浮かべていた。
何に想いを馳せているのか知りたくなるほどに、スザクの双眸は雨でも潤んでいる。
たぶん、今のスザクに自分が見えていない気がして、ルルーシュは気分が悪くなった。

「僕、雨が好きなんだ」

皮膚に落ちて来る滴は、冷たい。けれどもすぐに体温に馴染んでしまい、溶け合って生温かくなってしまう。
その一瞬が心地良かった。
「雨は優しい」とも、零す。満足げな声色で。

「だから少し、足を止めた」

少しという割には長い時間だった気がするけどな、とルルーシュは真顔で返す。

「俺は嫌いだ。気分が滅入る」

「そう?ルルーシュは神経質だからな」

ふふっ、とルルーシュに微笑んでもう一度、空を仰ぐ。注ぐ雨が顔に落ちて、頬に流れる。それはルルーシュから見ると、スザクが泣いているかのように見えた。
雨が降ると確かにルルーシュと同じように、気持ちが沈む。それでも何故か、落ち着いた。
あの日、あの過去の日も雨が降っていた。
今でも鮮明に思い出させるほどに、焼きついている。
今でもこの両手にある感触が蘇ってくるようで、ずっとこびり付いている赤い色。
ずっとずっと、汚れたままだ。
雨に打たれてもそれが消し去ることはないのに、流してくれまいかという願いがあるから僕は雨の中で佇むのだろうか。
この時だけは、世界が僕のために泣いてくれている気がする。
癒えない罪を背負ったことを許してくれようとしているのではないかと。

「好きでも嫌いでもどちらてもいい。それよりこのままここにいたらお前も俺も風邪を引く」

ようやくスザクの手を掴むとその冷たさに瞳を細めた。
自分がもし通り掛からなければいつまでこいつはここに立ったままだったんだろうか。
スザクに苛立つ自分がいる。
何故どうして、自分を追い詰めている?
弱点なんてないと思えるぐらいに強くていつも顔を上げて真っ直ぐを向いているのに、急に弱くなってみせる。あまりにもそれが脆くて無自覚で、扱いに困る。
スザクには雨なんかよりも輝く太陽を一心に浴びる向日葵のような、大輪の花が似合うと思う。
嘘っぽい顔で笑っても、すぐに分かる。
ばれないとそれで思っているから、性質が悪い。

「お前らしくないな、雨が好きだなんて」

手を引かれてスザクは水溜りを踏む。そして呟かれた言葉に小首を傾げた。熟れたバイオレットの二つの眼に見つめられて、心臓がぎし、と小さく軋む音を聞いた気がする。

「塞ぎこんだ顔、スザクには似合わない。お前にも笑っていて欲しい」

だからルルーシュは世界に戦いを挑む。
傍で笑っていて欲しい人がいるから、そのために反逆する。
スザクは呆然としながらも、彼の言葉を心に留めていた。
僕らしくない。
僕らしい、て何だろう?
ルルーシュには僕らしくなく見えて、それでも僕はここに一人しかいない。
本当の僕は、俺はー?

「スザク、」

雨の中に掻き消えてしまわないよう、ルルーシュが強く名前を呼んだ。
それにはっ、としてスザクは瞳を震わせる。

「俺が傍にいてやるから、聞いてやるから、一人でなんでも背負おうとするな」

俺の存在を忘れないで、辛いなら雨に打たれて流してもらおうとせずに頼ればいい縋ればいい。そのためにこの手を繋ぐ。
スザクの7年間は知らない。それでも、今なら傍にいてあげることが出来るから。

「ルルーシュ、君は本当に優しいな」

そんなに心配しなくても僕は大丈夫なのに。
君が僕を狂わして往く。
大丈夫なはずなのに、君に心配されるとつい、弱くなってしまう。
その優しさは毒を持つことを、君は知らない。

「ありがとう、ルルーシュ。僕は大丈夫だよ」

そう雨での雑な視界の中で笑う。
揺れる心に気付かれないように。怯えている心に触れられないように。

雨はいつだって優しかった。
僕の哀しみを唯一知っている。
ルルーシュはいつだって優しかった。
僕の罪と罰を、知らないから。

雨はまだ、上がりそうにない。
冷たい腕を掴んだ君