「なぁスザク、私にお前のお国言葉を教えてくれよ」
それは唐突な問いかけだった。
誰も居ない昼下がりのラウンジには開放されている窓から挿す暖かい太陽の温もりと風。
ふわりとスザクの髪が揺れて、ジノの金色の襟首から鎖骨まで垂れた三つ編みが靡く。
向かい合うようにテーブルを挟んでソファに座る。ゆったりと長い脚を組んで、スザクをにこやかに見つめる。
スザクはそれを笑顔なんかで返すわけがなく、無頓着で顔の筋肉を一つも動かすことなくジノを見上げた。
ジノとこんな広々とした部屋に二人きりの空気が妙に居ずらい、というのか落ち着かないと言うのか。
彼の質問や態度が自分に自由すぎるから、いつも困ってしまう。相手をしたくないというわけではないが、親しみやすいからこそ扱いが難しいのだ今の自分にとっては。
どう接すれば遠からず近からず、になれるのか。
その距離を測る。
「日本語のことか?」
「そうそう、ニホンゴ!スザクのブリタニア語は完璧だよな、聞き取れない、てことがない」
それはすごいことだと、ジノは関心しながらスザクを褒め称えた。
「自分で学んだのか?」
「それもある」
「誰かに教えてもらってもいたのか?」
「そうだよ」
すごく完結で素っ気無い答えが返ってきたとしても、ジノはますます楽しそうな表情をしてそうかそうかと一人で納得して頷いて、スザクへとマリンブルーの瞳を煌々として向ける。
まるで子どもが新しい玩具でも見つけたかのような輝きだ。
スザクは自分で淹れた琥珀色の紅茶を二つのカップに注ぐ。
ジノは自分でお茶の一つも淹れたことがないらしい。ここでは頼めばトゥエルブ辺りが用意してくれることもある。やはり女性とは気が効くものなのだ。そしてそれを見ているからか、自分も気遣ってジノに紅茶を振舞っている。
彼自身は当たり前かのように僕が出した紅茶に口を付けているが。
しかも砂糖を1、2、3杯と次々に入れるものだから驚いた。
ジノは甘党なんだろうか。良い体付きをしていてハンサムな男が甘党なんて、きっと淑女たちにとっては可愛い、と言われているんだろうなと想像した。
高い鼻がすん、と漂う葉の香りを嗜む。
一口飲むと渋味があるが、喉を通ったあとの爽やかさと潤い。
「誰に?ブリタニア人の友だちとか?」
その言葉にスザクの顔が強張るのがわかった。急に空気が冷たくなって、一瞬の間が長く感じるほどジノからの問いが鬱陶しかった。けど、彼から言葉を教わったんじゃない。過剰に反応してしまった失態を取り繕うために首を軽く振る。
ジノは知らないから気付かれるわけがない。
「友だちというか、昔お世話になった人。あとは一人で覚えた」
「へぇ、スザクって何でも一人でやるんだな。私は無理だ、勉強だって家庭教師がずっといたしナイトメアだって士官学校で教わったんだ。スザクみたいな土壇場は踏んだことないなぁ」
足を組み替えて明朗で低めの声色がにこにこと笑いながらスザクを知ろうとする。
「別に、僕は特別でもないし君みたいな権力もなければ力もない。ただ僕にあるのはゼロを捕獲した功績だけだよ」
「またまたそんなこと言って謙遜するなよ。それだって立派なことだ、誰にも出来ることじゃないさ」
くるくると指先に三つ編みを絡めて遊ぶ。
それをスザクはじっ、と見つめていたが視線を膝に落として目蓋を重くする。
友だちを売ることが立派なこと。
そんな事を君は知ったら、きっと軽蔑するんだろう。
けどあれはそうしないとゼロを罰することが出来ないと思ったから、そうしなきゃいけないのは僕自身の意思なんだと覚悟を決めてそうしたんだ。
悔いはない。
だってそうしたことによって、彼は彼の居場所を失うことはなく平穏な日々を送っているはずだからそれでいいんだ。
彼はもう僕のことなんて忘れてしまっているだろうから、苦しむことなんてない。
あの国で静かに暮らして、そしていつか僕が僕の責任を果たした時にまた会えたらいいなと思っている。
「スザク?人の話聞いてるか?」
ぼんやりとしてしまっていたことにその声で気が付き、顔を上げた。丸くて幼く見える翡翠色の瞳が少し驚いていた。
「ごめん、聞いてなかった」
と、素直に謝ればジノは項垂れる。
「別にいいけど。人と話す時はちゃんと目を見て話す、て教えてもらわなかったのか?」
「君が勝手にしゃべっていただけだろう?そもそも僕が最初にここで休んでいたのに僕の目の前に座って喋りかけるから僕が紅茶を君に出すはめになった」
ぴしゃりと跳ね返される台詞に苦笑い。
スザクの声は柔らかいくせに言葉の端は刺々しい。
彼の心に触れようとすると、すぐに追い返されてしまい辿り着けない深層回路。それがジノを余計に本気にさせる。
今までないパターンの人間だ枢木スザクとは。
「それは悪かったな。私はお前と話がしたくてここに座ってる。スザクは私と話なんてしたくない?」
髪の色と同じ整った眉がハの字に下がり、スザクを見る。「スザクにそんなこと言われるなんて寂しいよ」と確信犯のような潤った瞳に溜息が零れた。
ジノはずるい。すぐにそうやって言葉で巧みに追い詰めて、振り向かせる。
つい自分も、彼へと視線を注いでしまう。
「話がしたくない時はそう言うよ、はっきりね」
スザクは零した吐息と共に肩を竦めた。
一人になりたい時は率直に言うし、一緒にいて欲しい時だってそう言う。ジノが楽しそうに話しているのを聞くのは悪くない。今はどちらでもないから、話し相手になってやっていてもいいなと思っている。
こういう時間があってもいいだろうと。
「じゃあ話を戻そう。スザク、私にニホンゴを教えてくれよ、な?」
そうしてやってジノは一番最初に振った話へと戻ることが出来た。スザクはすっかり何の話をされていたのか忘れてしまったいたが、そういえばそんな話を振られたんだったと思い出す。
「どうして君があんな島国だけの言葉を知りたいんだ?まさか東洋の彼女でも出来たのか?」
真顔でそう首を傾げるとジノが勢いよく「違う違う!」と唇を尖らせて手を振った。
日本語なんて使う場所がどこにもないとスザクは思う。自分と話している時だって、お互いブリタニア語だ。ここに来てからだって、100%ブリタニア語だしジノが日本語を覚える必要などどこにもない。
スザクなりに考えた答えがそれだったのがどうやら違うらしい。
ジノが一体どんなシーンで日本語を使いたいのか想像出来なくて、スザクはますます不思議そうに目を丸めた。
「彼女なんていないさ。ただ、知りたいんだ」
ははっ、と照れくさそうに笑うジノが少し可愛らしく見えた。
彼の笑顔はすごく温かくて、癒される。ちりっ、と胸がざわめいて、ずきん、と痛むけれど。
「知りたい?何を?」
「スザクをだよ。スザクの祖国の言葉で、言いたいんだ」
「何を?」
まったく話の意図が掴めなくて、訝しげになっていく表情。遠まわしに言われても、スザクは他人の感情に鈍感だから気が付かない。
彼もまたどうしてこんなにも緊張しているのかわからなかった。
いつもならすらすらと言える言葉がスザクを目の前にすると霞んでしまう。
それでも確かな気持ちは、ここにある。
「だから、”愛してる”、てスザクの国では何て言うのか知りたいんだ」
ほんの少し染まった頬。
彷徨う照れて視線。
そして真っ直ぐに届く気持ち。
「その方がスザクも嬉しいだろ?」
きょとんとしたスザクの眼が、ジノを食い入るように見つめる。
日本語が知りたい、という理由があまりにもバカバカしいというか緊張感のないというか、惚けたもので言葉を失くす。
そんなものを覚えてどうしたいのか。
囁いて、何を確かめたいのか。
しかもそれを本人に聞いて言ってしまおうとするのだから、ジノという男は本当に真っ直ぐである。
「なぁ、だめか?」
また子犬のような純粋な瞳が向けられる。
頭の上に垂れ下がった耳でも見えてきそうだ。
甘やかしたらとことん懐かれて、離れてくれそうにない大きな子犬だジノは。
「……君はおかしな奴だな。愛してる、なんてどこでも一緒だよ、どっちだっていい」
ブリタニア語だろうが日本語だろうが、気持ちが変わらないのならどこでだって一緒だ。なのにわざわざ自分の母国語で言いたいだなんて、口説き文句なのか天然なのか。
おかしな奴、というか恥ずかしい男だまったく。
呆れ顔のスザクがくすくす、と口元に手を当てて笑っていた気がして蒼いジノの瞳が熱くなった。
「よくないさ、私はそうしたい。私がそうしたいと言ったらそうするんだ」
「我儘だな、ジノは」
胸を張ってそう言われても何の自慢にもなっていないことに、スザクの声質が意地悪をしているのかいつもより高めになる。
「だって仕方ないだろ?私はスザクのことが大好きなんだから」
するとジノがその饒舌な口調でスザクをストレートに口説く。
いつものことだが今は特別に感じてしまった。
スザクはどうしようか、と唸り考えて小首を傾げる。
教えてやってもいいがそれを伝えても、この関係をこれ以上発展させるつもりもなかった。
しかしなぜそこまで彼を拒む必要があるんだろうかと思えてきた。
別にもう囚われることなく、ここで生きてもいいんじゃないかと。
全て今更のことだ。
何も躊躇うことなんて、ない。
それでもまだ、焦がれていたいんだろうか『彼』という存在に。
スザクは頭の中でぐるぐると煮込まれてしまっているものに蓋をして、ジノを見据えてソファから立ち上がった。
「”愛してる”なんて、腐るほど聞いたからもういらないよ。君は君の言葉でいいじゃないか」
それはとても残酷で、せいいっぱいの強がりと過去への苛立ち。
愛してるよスザク。
彼は何度も言った。
あいしてる、と。
愛、て何かもよく知らない君が、僕が、囁くことなんて囁かれることなんて、おかしな話じゃないか。
未熟な僕らの恋は実らぬ果実となって、潰れてしまったのだから。
「僕は君のその真っ直ぐな言葉が好きだよ、ジノ」
彼とは違う、彼が出来なかった眩しさを持つ言葉の温かさに揺れ動く。
白い肌が紅潮して、予想していなかったスザクからの言葉に胸を躍らせている。
そんなジノを見ていつか、もっと先で、彼の気持ちに応えることが出来る日が来たら”愛してる”を教えてあげてもいいかなと、スザクは胸の内だけで笑った。
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ねぇ、何も与えないで