この心臓が音を消した時、世界は悪意の渦から解放される。
ありったけの憎しみを掻き集めてそれが正義によって救われ、新しい一歩を踏み出すための明日になればいいとルルーシュは思う。
もう振り返ることはしないと決めた。
過去を否定した自分に残されたものは明日だ。明日だけが、ルルーシュの魂の器となる。
過去はもういらない。懐かしんだとしても、もう戻れることは二度とないのだから捨てなくてはいけない感情だ。しかしそれでも、懐かしい日々を想うことをやめたくはなかった。唯一、それだけが今の自分を動かす力となって今日という日をくれる。
過去があったから今の自分がいる。明日という未来があるから覚悟が出来る。
過去は明日になり、明日は過去になって積もっていく。そのてっぺんでルルーシュは一人座って刻々と迫っていく最期の時間を待っていた。
ルルーシュは部屋を抜け出して、屋上への階段を上る。
ダモクレスを完全掌握し世界をその手に握り、恐慌させる今のルルーシュのブリタニアは独裁政治という名がすぐに浮かぶほどに容赦がなかった。ブリタニアと他国の格差の壁をなくせば次に行われたのは平等でありながらルルーシュによる絶対の力の下の支配。最初の頃は植民地解放、貴族階級の強き者だけが生き残るという支配を壊してくれるものだと人々は希望し誰もが、ルルーシュ皇帝万歳と称えたがそれは急速に忌み嫌われる名前となっていく。
結局、この皇帝も高いところからでしか見下ろさず、自身の幸福しか考えていないのだ。
また帝都ペンドラゴン消失に伴い、ブリタニア軍と政はこの日本を皇帝直轄区とし租界の復興を急ぎ、その間はアッシュフォード学園を仮の政庁として占拠していた。
まだ自分がこの学園でただの学生として過ごしていたときに、生徒会で作った屋上のガーデニングフロア。またここで花火を上げようと誓って、何度かスザクとここで話をした場所。空にはもう闇のカーテンが降り、そこから見上げることが出来る夜空は美しかった。
雲ひとつなく、満天の星を仰ぐことが出来て空気が美味しい。
庭園の中にある白い金属製のベンチに座り、深く息を吐いた。
あともう少しで世界は変わる。小さな一人の正義が大きな悪を倒し、世界が少しでも良くなるための明日へと繋がっていくための舞台が。夜の闇に溶け込むベルフラワーの瞳をゆっくりと閉じてきルルーシュの耳は静寂の中にある自分の鼓動を聴いた。
するとそこへと芝生を踏む足音がだんだんと近づいてくるのが聞こえて、目を開ける。振り返らずともそれが誰なのかわかっているルルーシュは、小さく微笑んだ。

「どこにもいないと思ったらここにいたんだな」

柔らかい声色でルルーシュ、と名前を呼ばれてからようやく佇む騎士へと視線を上げた。夜風に彼の鳶色の巻き毛がふわふわと揺れて、大きなエメラルドの双眸が自分を真っ直ぐに見つめている。

「スザクは俺が逃げたと思ったのか?」

視線が交わって、表情が変化する。
ルルーシュは笑みを。スザクはまた太い眉根を寄せて唇を強く結んだ硬いものとなる。

「まさか、そんなこと思ってないよ。たださっきまで隣で寝ていた君がいないから探しに来ただけ」

ナイト・オブ・ゼロであった枢木スザクはダモクレスでの戦いで戦死したと公の場では発表されていたが、それは何度目になるか分からないルルーシュの世界への嘘だった。
スザクは死ねない。ルルーシュが与えたギアスがそうさせない。
彼が描いている世界の景色が徐々にクリアになっていく。スザクの死も、ルルーシュが皇帝であることもすべてが二人が嘘を本当にするための約束の通過点にしか過ぎない。スザクは枢木スザクであったことを抹消され、約束の日まで身を隠し続けなければならなかった。自分が死ぬということに未練はなかった。ずっとそうしたかったこと。けど少し違う。僕が本当の意味でいなくなるのは正義の名の罰を下されることで与えられる時だ。
死んだとされてもスザクはずっとルルーシュの傍にはいた。たった一人、この男だけがまだスザクをスザクとして生かしてくれている。
スザクがスザクで居られる最後の場所だった。
視線を外したルルーシュの隣にスザクは腰を下ろす。少しだけの間隔を空けて。
こうして並んでいられる時間が、怖いほど幸せだと感じる。昔はもっと欲張っていたのに、今はただこれだけでも十分すぎている。いや、むしろ今の方がずっと欲張りなんだろう。
ちらりとスザクの視線がルルーシュへと走って、俯いた。膝の上で拳を軽く握り、吐息を震わせた。この虚無の中にある不安と希望が、自分を揺する。
しかしスザクは決してやめようとも、嫌だとも、口に出して言わなかった。二人で決めて、二人で終わらせると交わした罪と罰。
僕らがすることは他人から見ればとても愚かなことかもしれない。
それでも僕らは僕らにしか出来ないことをして、満足で、やっと届けることが出来るかもしれない叫びを大事にしてきた。
見えなかった終着点にやっとたどり着く。
その瞬間に、きっと枢木スザクは本当に死んでしまうのだろう。
それでいいんだと、スザクは目蓋を伏せる。

「ルルーシュは、怖くないの?」

ふと、スザクがそんなことを口にした。不安に押し出された声がつい、言葉となってしまった。何に対しての不安なのか、何が怖くないのか、漠然としていて曖昧だった。
彼のその問いにルルーシュは口端を緩めた。

「怖い?何が、」

その声はいつもと変わらない優しくて、心地良いテノールの響き。
何がと聞かれてもスザクは言わない。
怖いのはきっと僕の方だ。刻々と迫ってくる僕らの時間に焦っている。この瞬間が、すべてが終わる瞬間が本当は怖くて怖くてたまらない。
ルルーシュはこの時間をどう思っているんだろう。もっと長く続けばいいのにとか、早く終わらしてしまいたいとか、どう思っているのか知りたい。
だがそれを口にするほどスザクはもう弱くはなかった。
スザクは苦く笑って、ごめんと謝った。ルルーシュにはスザクが謝ったことに対して、「そうか」と本当は気付いているのに気付かないふりをして目を細めた。
するとルルーシュはスザクの冷えた手に手を当てた。大丈夫、と安心させるような優しい温度が次第に伝わってきてスザクは胸に突き刺さる痛みを感じる。

「なぁ、スザク。俺はお前だから怖くないんだ。俺とお前の二人なら、出来ないことはない。そう最初に言ったのはスザクだったな」

長いルルーシュの睫毛が影の中に影を作り、瞳の紫色をさらに濃くしていた。その横顔をスザクはじっ、と見つめて奥歯を噛み締めて頷く。昔、まだ幼かった頃のただの強気の言葉が今でもこうして強く残り、二人の背中を押している。不思議とその言葉を魔法のように唱えると、芽生える強さが今はある。
一度は諦めかけた繋がりが。

「そうだねルルーシュ。きっと、上手くいくよ。だって僕とルルーシュがやるんだ、怖いものなんてないよな」

まるで自分に言い聞かせているようだった。随分と二人で遠くまで来てしまったけれど、やりたかった願ったことは同じ道を歩んでいる。だから約束できたんだと思えた。
ルルーシュの手を握り返して肩を寄せる。こつり、と当たる線の細い肩の微かな熱。

「スザク」

彼の声が、少しだけ潤んでいるような気がした。

「愛してるよ」

何の前置きもなく囁かれた台詞は何度告げられても色褪せない愛しさが詰まっていて、スザクは一瞬呼吸が出来なくなってしまう。
ルルーシュは優しくて、残酷だ。こんなときに、わかっているのに、簡単に言ってしまうのだ。僕が言えなかったことを変わりに君が言ってしまう。だから僕の気持ちはいつだって乱れたままなんだ。好きなのかも憎いのかもわからなくなって混ざり合って、結局は僕らがどういう関係だったのかさえ曖昧になる。
今は、昔は、この先は?
スザクは彼の言葉に苛立つと、ルルーシュの手を払い退けて腕を掴んで身体を向け合い噛み付くようなキスで唇を奪った。歯と歯がぶつかる鈍い音がしてルルーシュの柳眉が驚きに上がる。
僕はルルーシュが愛しい。長い長い時間を共に過ごしてきたわけではないけれどその中に隙間なく埋められた時間の一つ一つが、最後まで切れないたった一本の絆になっているんだ。

「なんだスザク、泣いているのか?」

鼻を啜るスザクを見て、ルルーシュが声を立てて笑った。

「違う、泣いてない」

「そうか?」

スザクが顔を隠そうとしているのを面白がって覗きこんでくる。その意地悪さにスザクは唇を尖らせて、不貞腐れる。

「うるさい、ルルーシュ」

「はいはい」

それでもルルーシュは笑っていて、柔らかいスザクの髪に触れてきた。そこで見上げるエメラルドグリーンの瞳と覗くアメジストの瞳が出会って、本当はこんな現実が悪夢で目が醒めたら隣にまだルルーシュが眠っているんじゃないかと思える。
けど瞬きをしてもそこには自分を見つめてくる彼がいて、もう甘い夢なんて見ていられなくて、それでももう少しだけならいいよねとスザクは悲しく、そして頬をほんの少し焦がして笑った。

「ルルーシュ、ずっと一緒だ」

ああ、とルルーシュが力の抜けた震える声でスザクの言葉に頷く。
君とならどこまでも行ける気がする。
どこまでも、見えない先も怖くない。
ルルーシュの最期に華を添えることが出来るのは僕だけだ。僕だけが、彼の愛と憎しみ優しさに怒りを知っている。僕らだけが僕らを理解しているから僕がやらなきゃいけなくて、ルルーシュは僕に与えなくてはいけない正義の剣がある。
誰にもわかってくれなくたって、たった一人が自分という人間を見届けてくれるのことのかけがえのない刹那をスザクは知っている。わかってほしくて泣いて叫んで、誰にわかってもらわなくても構わないと閉じこもることも。
僕だけが知っているルルーシュ。
熱くなった手の平で頬を撫で、額と額がくっ付くとスザクは静かに目蓋を下ろしてルルーシュからの甘くて蕩ける口付けを身体に刻み付けた。

「なぁ、スザク」

黒い絹髪がスザクの頬を掠める。肩越しに見える夜空の黒がルルーシュの髪の色と重なり、連れて行ってしまうのではないかと思えてスザクは彼の背へと手を回した。
二人の時間にもう嘘はいらなかった。たくさんの嘘と裏切りがあったけれど、スザクはきっともう裏切らない。そしてルルーシュも同じようにスザクのことを信じた。
ギアスは願いだなんて、自分でもよく言えたなと思う。どれだけの人をギアスによって不幸してきただろうか。スザクの大事だった人を奪い、自分が大切に思っていた人を亡くしたくさんの人が自分によって蹂躙されたことを願いと似ていないか、とスザクに告げることが出来た傲慢さ。この言葉を憎んでもいい。
そうしてスザクの感情を揺すって愛されて憎まれて、最後にはスザクの生涯に眠りたいという浅はかで最低な我儘だ。

「お前だから怖くないんだ、」

もう一度、この腕にある温度を確かめるためのその声は、眠りに付く前のおやすみなさいの言葉のように安心出来るとても穏やかなものでスザクの目蓋はゆるゆると落ちていく。

明日を続けていくために、スザクは走る。どこまでも、自分の命が燃え尽きるまでどこまでも。
スザクは悲しまないことにした。
スザクはルルーシュの前では泣かない。
ルルーシュがスザクに、スザクがルルーシュに最後の大きな愛をくれるその時まで。

















                                  


愛の詩