浮遊航空艦のタラップから靴音を鳴らして降りてくると大きな背伸びをしながら空を見上げた。冷たい風に身を一瞬震わせて、急ぎ足になる。
本日は晴天なり、とにこやかに呟いてタラップを降り切り、久しぶりの祖国の地を踏む。EUからの長い旅路を経て、ジノがブリタニアに帰ってきたのは一週間ぶりだった。
EUも寒かったが故郷の気温も一桁台で、はあ、と息を吐き出せば白い。
これがバカンスなら最高だが、自分が向った場所は戦地でありバカンスとは間逆の血生臭い世界である。膠着状態であるEU戦線は最近になってやっと敵側の包囲網が解けてきたような気がする。
第二皇子であるシュナイゼルがEU戦線の指揮を取り始めてからは内政にも影響を与え、それに武力としてナイト・オブ・セブンであるスザクも加わったために大きなうねりを上げて変わりつつある。
スザクは今回の任務には就いておらず、宮廷留まりのはずだ。一週間近くも会っていないと毎日頭の中が忙しい。スザクは今頃何してるかな、とか今ブリタニアは夜だろうから寝てるかな、とか常にスザクのことを思う日々。
メールもしてみたがスザクの返事はとても素っ気無い。大体三行メールで、「わかった」だの「おやすみ」とか「おはよう」とか味気ないものばかりだ。
ジノはスザクがそういう男だとわかっているから気にはしないが、やっぱり早く帰りたいと焦がれてしまう。
青空は薄く、こんな寒い日には温かいココアを飲んでスザクとも温まりたいなぁ、なんてことを考え煮ながら用意されたリムジンにジノは上機嫌に頬を染めて乗り込んだ。



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ジノがEUから帰国したとアーニャから聞いた。が、スザクは相変わらず顔色一つ変えることなく「そうなんだ」と言って、アーサーのブラッシングを再開する。
アーサーも寒い外が嫌なのか珍しくスザクの膝の上で蹲ってごろごろと喉を鳴らしていた。それがとっても嬉しいからスザクはジノの話題など二番手、ということなんだろうとアーニャは理解してその様子を携帯に収めてソファに深く腰掛ける。
テーブルには先ほどモニカが淹れてくれてアールグレイの紅茶が香ばしく甘い香りと湯気を立たせていた。

「ジノ、スザクのこと探してた。けど先に報告書を作らないとベアトリスに怒られるから先にやる、て言ってた」

アーニャもさほど興味なさそうにして呟くと、スザクがふわりと栗毛色の巻き毛を揺らして「それは当然だ」、と頷く。そういえば自分も再提出しなければならない書類があったことを思い出す。
膝の上の猫がにゃあと長いヒゲを揺らして鳴くと優しくブラシで毛を撫でているスザクの指を齧った。

「いたっ」

鋭い牙の先が柔らかい皮膚を突く痛みにスザクがぎゅっ、と目蓋を閉じた。

「ほんとスザク、よく噛まれるのね」

飼い猫に噛まれているスザクを見るのは何度目だろう、と思わず携帯の画像フォルダを振り返ってみたくなった。初めて会ったときからそうだった気がする。
スザクの指を甘噛みした後、この温かい場所から飛び出してアーニャの側へと移動した。彼女の細く白い手がそっと撫でると、尻尾を立てて気持ち良さそうに金色の目を細めて擦り寄っているのをスザクは噛まれた指先がじんじんとするのを感じながら、羨ましげに見つめて嘆息する。

「じゃあ僕はそろそろ部屋に戻るよ。アーサーはまだ君と居たいみたいだからよろしくね、アーニャ」

「おやすみ、スザク」

ぱたんと扉を閉めてスザクは談話室から続く自室へと歩き出す。アーサーが噛んだ指先が冷たい風に晒されているからか、じんじんと熱い痛みになっている。
大きく溜息を吐いて、「どうしてアーサーは僕に甘えてくれないんだろう」と思わず独り言を呟いてしまった。別にアーサーがそれで嫌いになるわけじゃない。ならもっと愛情を注いで振り向いてもらおうとスザクはまた一段とアーサーを大事にする。
またスザク自身も気付いてはいないが、あの猫は猫なりにスザクのことをちゃんと見ていて側にいてくれる猫だった。

「部屋に帰ったらまず報告書を訂正しないとな」

白い息を吐き出して身を震わせると突き刺す夜の寒さに早足になる。ブリタニア語には生活や仕事に支障が出ることがないほどに会話術として心配はないが、文章となるとこれが難しい。
また特派にいた頃は報告書なんて一切なかったし(本来は出さなくてはならないが、そこはロイドが上官であったため大変緩かった、ということだ) 、名誉ブリタニア人として一等兵だった頃も報告書などなくあるとすれば始末書とされた罰則ぐらいだ。
ラウンズになってからは何もかもが自分に任される。スケジュールは上官であるベアトリスが管轄を執り行ってはいるが、生活や仕事の面での責任は全て当然ではあるが自らが負わなくてはならない。
率いたことはまだないが、いずれ部隊の先頭にたって指揮する日もやってくるに違いなかった。幾万の命を預けられて、自分が出した指示一つで奪い奪われ勝利していかなくてはならないことへの恐れを、スザクは持ちながらも毅然として振る舞っている。
弱い者を守るために強くなる。そのためには必要なのだと、燃えるように熱くなった鉄の上を素足で歩いていくことをあの日から決めた。
自分で決めた、自分だけの道だと。
自分の部屋の扉の鍵を開けて一歩入れば外の冷気を押し返す暖かさがあった。部屋の床には暖房が敷かれており、空調は自動で設定された温度を保っているためすぐに暖房機器を付けなくても大丈夫だった。
白の上着のホックを外して腕に掛けて寝室のドアを開けるとスザクの視線が自分のベッドへと向く。そこにあるものを見つけて、スザクは飽きれた吐息を零した。
薄暗い寝室のテーブルの上にある淡いランプと、ドアの隙間から射し込んでくる明かりが伸びているだけの小さな世界。窓からの月明かりはカーテンで遮られている。

「ジノ」

ドアを閉めてベッドにもぐりこんでいるであろう人物の名前を呼ぶ。しん、と静まり返った部屋の中でのその声は鈍くて響かなかった。
しかしすぐに反応はなく、膨れたクリーム色のブランケットが動くだけ。

「ジノ、」

もう一度声を掛けてみるが熟睡しているのか自分に気が付いていない。人の部屋に勝手に入り込んでくるのはジノの悪いクセだ。これで何度目になるだろうかと数えるのももうめんどくさい。
スザクはベッドまで足音を立てずに近づくと、ゆっくりと腰を下ろして埋まっている彼を覗き込んだ。
金色の頭が見えて、目蓋はしっかりと閉じられている。
ジノの真っ青な瞳はいつもでも純粋で真摯で、年下なのに随分と自分より大人びてみるがこうしてきゅっと目を閉じてあどけない顔をしながら寝ているのを見ると可愛らしいと思えるのが不思議だ。
(ジノは、僕がラウンズになる前もこんなことしていたんだろうか)
ふと、とそんな嫉妬みたいなことを考えてみた。
ジノにとっては人の部屋に勝手に転がり込んでベッドを占領している、ということが当たり前のようだがそれがスザクだからなのかそれとも前からそういうクセがある、ということなのか。
スザクはそんなことを考えてしまった自分に対して眉を寄せて唸り、首を振る。
(そんなことどうでもいいじゃないか。別に、どっちでもー)
そう無理矢理に思考をシャットダウンさせた。

「……スザク?」

すると眠そうな掠れた声が耳に入ってきてスザクは視線をジノへと下ろす。ぼんやりとした視界をクリアにするために目を擦り開いて、スザクともう一度呟く。

「おはよう、ジノ。僕のベッドの寝心地はよかったかい?」

そうふんわりと口元に優しい笑みを作ってみれば、ジノがつられて笑った。スザクより逞しい身体を起こしてスザクと向き合い、大きく欠伸をする。そして背伸びをしてそのまま抱きすくめられると、スザクがその腕に小さく埋まってしまった。

「うっかり寝てしまっていたよ。スザクの帰りを待っていようと思って……けど丁度いいだろう?ここ、ぬくぬくで温かいよ」

そのまま引きずり込まれてしまいそうになるのをスザクがジノの胸を押し返して離れて溜息交じりにジノを見上げた。

「あっためてくれたのはありがたいけど、いい加減その不法侵入を直した方がいいと僕は思うけど」

これで何度目だよ、とあきれてみるが彼は何も悪びれた様子もなくにっこりと笑う。綺麗に並んだ白い歯が見えて、青い二つの瞳が細く滲む。
ジノは一体いつからこんなクセのような行動を取るようになったんだろうかと、またさきほどの延長線を思う。
スザクはちくりと小さな痛みのように痒さに気が付いて、短い睫毛の影を目元に落とした。しかしジノは気にすることなく、寝起きにしては明るいはつらつとした声でスザクに喋りかける。

「本国から帰ってきてからスザクを探したんだけど、ここで待っていた方が確実かなと思ったんだ。正解だろ?」

確かにここはスザクの部屋である。ということは、スザクが帰ってくる場所であるため待っていれば嫌でも会える。

「そういう君は祝勝会だったんだろ?それに報告書だって、」

「ちゃんと行ったしやったさ、私はこれでもナイト・オブ・スリーだからね」

そう言ってスザクの腰に手を当てて抱き寄せると頬ずりをしてきた。首筋に垂れる三本の三つ編みが視界の端で揺れていて、思わず引っつかみたくなった。
まるで猫のしっぽのように彼の三つ編みはよく揺れる。
猫と言えばスザクの飼い猫アーサーはまだ帰ってきていない。まだアーニャといるのだろうか、と思いそれがジノと何故か重なった。アーサーは懐いてくれないけれど、この大きな子犬はよくこうして甘えては懐いてくる。
とても簡単に。
思わず嫉妬というかナンというか実に複雑な心境になった。それに加えてジノは他人にもこうしていたことがあるのかもしれない、という勝手な妄想が取り付いてもやもやする。
ジノの金色の髪にそっと触れて、撫でた。

「スザクだって私の部屋に勝手に来てもいいんだぞ、私はいつだって待っているんだから」

そうスザクに撫でられる感触を気持ち良さそうに声色を彩り、零した。スザクはジノのように部屋には侵入したり用がないときには行かない。それが普通だろう。
ジノはスザクに頼られたかった。そして甘えて欲しい、とも。
しかしスザクは自分のように会いたかったから、と言って訪ねてきてはくれないのだ。ならば自分から行く。そうしてスザクに気持ちを伝えれば、いつかスザクが自分ともっと楽しく過ごしてくれるんじゃないかと期待する。
また自分もスザクに甘えていたのだと、盲目な恋をする。
真っ直ぐに見上げてくる笑みを、スザクはどうして自分の傍にこの男がいるのか今更な疑問が浮かび息苦しくなった。

「君は、」

乾いた唇がジノを呼んで、エメラルドの視線は伏せられる。

「君は甘えるの、上手だね。そうやってたくさんの女性を口説いてきたんだろ」

少し意地悪な言葉を付け加えてみると、ジノは急に顔色を変えてスザクと向き合うと激しく首を振った。

「何言ってるんだ、スザク!私はそんな軽い男ではないぞ!」

今はスザクに一直線だ!と暑苦しく抱き締めると、スザクは窮屈そうに眉を顰める。ジノは男相手には自分が初めてかもしれないが、普通の恋愛は重ねてきていることぐらいわかる。
きっと何人もの女性とこうやって訪ねてきては甘い時間を過ごしていたことだってあるはずだ。
男の自分から見てもいい男だと見えるジノだから、それが羨ましいと思うのと同時に嫉妬もした。だからつい、口に出てしまった言葉。

「そうかい?」

だからそれを隠したくて、素っ気無い台詞を返す。
ジノがスザクに囚われているのではなく、本当は自分なんだろう。スザクがジノの部屋に行かないのは、こうしてジノがやってきてくれるのを知っているからだ。
それを甘え、と言うのだろうか。自覚と呼べるものはそれには感じない。

「そうだよ。知っているくせにスザクはたまに意地悪だな。それにスザクだって甘えたりすることぐらいあるだろ?」

スカイブルーの双眸は薄闇の中でも煌いていて、間近で見るととても輝いている。スザクを見るジノはいつも純粋で、友愛が篭られていた。
たまにそれが恥ずかしいと思えるほどだ。

「ジノ、僕は甘え方なんて知らないんだ。甘えたことなんて、一度もないよ」

誰かに縋るとか甘えるとか、そんなものはスザクの中では一度も体感したことがなかった。いつだって自分は窮地にいる。だけど、それを手助けして欲しいと願ったことはないと、スザクは苦笑する。

「だから君みたいに素直なのがちょっと羨ましい」

自分も彼みたいに一直線に歩けたら、大切な人も友達も失わずに大事にしていけただろうかと夢うつつを見る。
寂しく遠くを見て、目の前には自分がいるのに見ていないスザクの視線の先にジノは一瞬言葉が詰まってしまった。笑っていてもそこには拭えない悲哀がスザクにはあった。
だがジノは決して口には出さない。スザクが自分自身のことを話してくれるまで何も問わないことを決めている。
それがいいことなのか悪いことなのか、今はまだわからない。それでもジノの優しさは『触れない』という思いやりも含まれていた。
ジノはスザクに前髪を掻き上げて白い額にキスすると、くすくすと笑う。

「なんだよ、スザク。寂しいなら寂しいって言って拗ねないで私のところに来ればいいじゃないか。恥ずかしがらないで私に甘えくれよ」

スザクが甘え方を知らないというのなら、教えてやればいい。そうして彼を手に入れてしまえばー。
そんな仄暗く滲んだ気持ちを掻き消して、ジノは変わらない明朗で無邪気な顔をしてスザクを覗き込んだ。

「そんなんじゃないよ」

太めの眉が困ったように下がりほんの少し、スザクの頬が赤らんだ気がする。

「私はスザクに甘えてもらいたい。もう一年、いや二年早く生まれていればよかったのかなぁ」

独り言のように零れた言葉をスザクの耳が拾い、短く簡単な溜息を吐く。自分より年上になれば少しは頼ってもらえたかも、という安易でもう無理な願望が可愛らしくもあって思わずスザクから笑みが零れ落ちた。
もしもジノが年上であっても変わらない気がした。ジノが年下であることがわかったのは最近のことだ。だからそうであってもジノの希望には応えられないかもとスザクは一人想像してみて翡翠色の瞳を細めた。

「今のままの君で十分だよ」

そう掠れた声で告げて彼の胸へと頭を預ける。この時間が、この触れ合いが無意識の甘えだということに気付きつつある。
たぶん知らない、ということはたぶん知っていること。
目を瞑りジノの手のひらの温かさが、眠気を誘っているようだ。
(知らない、甘えたことなんてない。僕はいつだってー)
閉じていく瞳と同時に頭の中にある自虐的な感情を濁していく。
そしてジノの腕に抱き締められていると、そっと耳元で甘えた声でこう囁かれる。

「スザクも眠いんだろ?何も今日はしないから、一緒に寝てもいい?」



断れない僕もきっと、盲目な恋をしているんだ。








                                 


HONEY