自分自身が生まれた日のことなんて頭の中にはなかった。誰かに言われて、ああそうだ、と思い出す。
しかし今年はしっかりと覚えていた、自分の誕生日を。
けれどもう枢木スザクはこの日を迎えることはないのだ。と、スザクは夜空の中で目を伏せた。
それが一年、二年と過ぎる。しかしその日、政庁の奥にある自室へと帰ると必ず花束が置かれているのだ。一年前も二年前も同じように。
月夜に照らされたその白い紫陽花はきらきらと光っているように綺麗でとても優しい色をしていた。
ただそこには紫陽花だけが美しく咲いているだけで、誰も居ない。誰だろう、なんて簡単だった。
きっとナナリーだ。彼女は花が好きで、皇宮での庭園も彼女自身が手入れしている。ナナリーの優しさをいっぱいに受けて育つ草木は特別に輝いているように見えた。
ナナリーはゼロもいつでもいらしてください、と笑っていた。その広い庭園の中に確か紫陽花も咲いていた気がする。
「ゼロ、知っていますか?こんなに身近な紫陽花にも毒があるんですよ。身近にいながら気が付かないでいるのと気付いているとでは、接し方は違います。私はちゃんと知っていますから、それでも綺麗だと思うのです」
まだ自分の足で歩くのは難しく、車椅子に座ったままで彼女は後ろに立っているゼロに向かって柔らかく穏やかな声でそう告げた。
彼女の淡い紫色をした視線はじっ、と緩やかな円を表面に描いた色とりどりの小さな花びらの集まりを見つめている。
その時の言葉に意味があったのかなかったのか、それはわからないけれど彼女はスザクのことをよくわかっていてくれた。
だからきっと、そっとしておいてくれるのだろう。
スザクはここ二年に渡って送られる花束をナナリーからのものだと信じて疑わなかった。
今年もそうした自身の誕生日がやってきたがスザクはいつもと変わらぬ一日を送っていた。朝起きてから歯を磨き、もう馴染んだゼロの衣装を纏い、最後にその象徴である仮面とルルーシュから託された剣を腰に携えて厳重にロックが掛けられた部屋を出る。仮面の中に隠してしまうのは勿体無いほどにこの青年は凛々しく育ち、幼く見えた顔のラインも少し細くなって大人になった。日に当ることが少なくなったため色は白くなったが、病弱のように白さではなく健康的な美しい体躯の線を描いている。
また、スザクらしさは昔から何一つ変わっていない。
政庁に出向くとナナリーの秘書官とシュナイゼルを交えての会議が行われ、来月日本で行われる先進国首脳集会への日程を整える。
午後からはナナリーの付き添いとして地方都市への訪問。ようやく自分の時間が出来たのはもう陽が暮れた頃だった。
それでもまだ自分のチェックとサインが必要な書類の処理と、日課にしているトレーニングがある。
いつもならそのトレーニングの相手としてジノがいてくれるのだが(スザクの素顔を知っていて対当な相手になるのはジノぐらいだからだ) 、今週の初めから彼はEUへと旅立っていた。そう仕組んだのはスザクだ。
彼から離れていたかった。きっと彼は7月10日が何の日か自惚れのつもりはないが覚えているだろう。
おめどてう、と言ってくれるだろう。
もういない、というのに。
けれど、いないといいながら普段の仮面を被った自分も素顔になる自分の傍にいることをジノには許している。
矛盾していることはわかっているが、声に出して言われると構えてしまう。
改めて枢木スザクは死んで、嘘の上に積みあがる真実があるということを感じて。命の鼓動を今もこの胸が打ち続けている、という実感だ。
そしてもう一ついつか、ジノが傍にいることでゼロとしての僕がいつか破綻してしまうのではないかという不安でもある。
僕が僕であるためにほんの少しの距離を置く。きっとそうしないと弱い僕が彼に縋ってしまう。
単純にジノと迎える特別な日が怖いのだ。
EUへの派遣についてジノは不服そうではあったが、それが筋を通った任務とならば断ることは出来ない。じっとりとした湿気の視線で見つめられたのを知ってスザクは目蓋を閉じ、ジノを見送ったのが三日前のことだ。
スザクはライトダウンされた長い廊下を歩きながらぼんやりと考える。
生まれてまた一年を過ぎて、僕は何をしてきただろうか。世界のためにみんなのためになることが出来ているだろうか。
まだまだ世界中に泣いている人はたくさんいる。その涙をまた新しく得る道しるべの中で掬いたいと思う。
ふと足が止まり、スザクは仮面の中で笑った。僕は生まれてきてよかったのだ、と一人で孤独の誕生日を祝うように。そしてあのジノの視線が今日一日ないことに少し寂しい、と思ってしまった。
じっ、と辛抱しながらそれでも伝えたい想いがあるあの真っ青な瞳。
(自分から遠ざけたのにそんなことを思うなんて我儘だ)
21歳になったというのにまだこうした我儘をもっている自分が情けない。
本当は君が言ってくれるのを待ってる。そんな自分がいる気がした。
自室の前に行くとやはり今年も白い紫陽花が扉の前に置かれてあるのを見て、スザクは窓から差し込んでくる月明かりを見上げる。
初夏が近いというのに冷たくて涼しく、優しい明りだった。
スザクは紫陽花を拾い上げると大事に抱え、部屋のロックを解除しようとしたが扉のセキュリティのランプが青く光っていた。つまりこの扉は開いている、ということになる。
(誰かいる?)
出たときにはちゃんと施錠された赤ランプが付いていたはずだ。ここまで来るのにもいつくかのセキュリティを通らないと辿り着けない造りになっている。それも全てゼロであるスザクのプライバシーを守るだめで、知っている者は極少ない。
侵入者だろうか、と剣に手を翳したがふいにまさか、とスザクは思いついて扉を開けた。
勝手に部屋に入ってくる奴なんて知り合いには一人しかいない。しかし彼は今遠く離れた場所にいるはずだ。
だからジノではない、と頭では思いながらも心の中では期待している。
勢いよく扉を開けてリビングまで早足で向うとやはり思っていた彼がいたことに立ち尽くした。
部屋の明りは消されていてテーブルの上にあるランプと壁の橙色のランプだけが、二人を包んでいる。
それでもはっきりと見える色にスザクは大きく溜息を聞こえるように付いた。

「やぁ、スザク。三日ぶりだな」

だがその声はスザクの驚きと苛立ちを無視した快活な声でにっこりと笑った。
彼はいつだってそうだ。どうしてなぜ、そういう場所ばかりにいて僕を驚かす。

「ジノ、どうして君がここにいるんだ」

ここにいるはずのなかった人の名前を呼ぶと、ジノは一歩前に踏み出る。

「どうして、私はスザクの部屋の暗号を知っているからさ。スザクが教えてくれたんじゃないか」

「そうじゃなくて、」

スザクは一度そこで言葉を切ると紫陽花をソファへと手放して、仮面の後方にある開閉ボタンを押した。
すっ、と心地良い風が隙間から入ってきて圧迫感がなくなる。ココア色をした髪が仮面を外れた拍子にふわふわと揺れ動く。
ようやくスザクのエメラルド色の瞳が射抜いてくることに、ジノは嬉しそうに目を細めた。
金色の髪と青い瞳は深みを増して落ち着いた色に見える。ラウンズの頃から賢く、強さを誇っていた彼はまた随分と逞しい男へと成長したが、相変わらずな部分もある。
太陽みたいにぎらぎらと眩しくて、真っ直ぐに人を想うことが出来る純粋な青年のままだ。

「君はEUに行ったはずだろ。帰国予定は明日だ」

声を尖らせて叱ると、ジノはそれを苦ともせずに続けた。

「一日早く済ませてきたんだ、それに私が行っても手持ち無沙汰でさ。それに……今日はスザクの誕生日だろ?間に合わないのは嫌だと思ったんだ」

「……」

やっぱり彼は今日が何の日か知っていた。こうなるとが嫌だったのにこれでは意味がない、とスザクはきゅっと太い眉を中心に寄せた。
何のためにジノを行かせたのか、最もな理由はあったが付加としている自分の我儘だ。きっとジノはそれをわかっている。わかっていたから帰ってきている。
スザクは唇を噛むとジノから視線を外す。

「僕の誕生日なんて、忘れてくれないか。もう、意味はないんだよ」

枢木スザクはここにいながらここにはいない。
そんなもどかしさが、怖くて短い睫毛で隠れた瞳が鈍い明りの色を映す。
ジノは拳を握り締めて佇むスザクを見つめて、ちらりと暗闇の中に咲く美しい花を見た。
そしてふいにこんなことを口にする。

「スザク、その紫陽花は私が送ったんだ」

耳に響くその台詞にスザクは顔を上げた。きょとん、と隙ばかりの可愛らしい瞳。

「えっ?」

すると慌ててジノは続けて付け加える。

「あ、いや、今年は私から、ということだよ。本当はナナリーさまが送っていたけれど、今年は私にさせてくださいとお願いしたいんだ」

ナナリーは快く了承してくれたよ、と彼は頷く。
スザクの考えは当っていたが、今回の紫陽花がジノからだとは思いもしなかった。丸々としたスザクの眼が震えながらジノを見つめている。

「紫陽花の花言葉は辛抱強い愛情、なんだって。スザク、知ってた?」

ナナリーもスザクを想い、ジノもスザクを想う。ずっとずっと、それはどれだけ辛くても耐え続けてそれでも変わらず私はあなたを愛します、という気持ちを篭めていた。
ナナリーやジノだけではなく、スザクを知っている人たちがそう支えていることを示したかったんだよ、とジノからやっとこの花が送られる意味をスザクは知った。
スザクの緑色の視線が紫陽花へと戻る。それを今度はジノが追いかける、今日という祝福の日を綴る。

「なぁ、スザク。確かに今日はスザクが思っているような人の誕生日じゃないかもしれない。けれど私にとっては、今日が新しいスザクの誕生日でもあるんだ」

ゼロとして生きるまだ幼いスザクの誕生日。それでもだめ?とジノが小首を傾げて聞く。
それにスザクは固まると、瞬きを繰り返した。
世界が知っているスザクはもういないかもしれない。けれど、ジノが知っているスザクはここにいる。
2年間ずっとわかっていても沈黙していた。やっと声にして彼が生まれた日を再び祝えることをスザクと一緒に喜びたい。
ジノはスザクの手を握ると、自分の胸へと抱き寄せて言いたかった言葉を告げた。
何度だって思っていた。何度だって告げているような気がする。けれどこの言葉が言えたのはたった一度しかなかった。
これからは来年も再来年も言えるだろうか。

「スザク、誕生日おめでとう。ありがとう、生まれてきてくれて」

耳元で囁かれる声はとても良い音色で胸が高鳴る。
身体が熱い。胸が張り裂けそうなほどに音を立てている。それを感じて、スザクは身体の力が抜けて柔らかな息を吐き出した。
ああ、僕は生まれてきてよかったのだ、とまた唱え静かに目蓋を落とした。
まるでこの瞬間のために生きていたんじゃないかと思うほどに、息が苦しくて泣きそうだ。

「ふいに私を近づけたと思ったら今度は遠ざけるなんて、スザクは意地悪だなぁ。それでも私の気持ちは何も変わらないし、これからだって耐えてみせるよ。けど、いつか必ず私はスザクを連れ出すから」


それがスザクへのプレゼントだ、とジノは力いっぱいに抱き締めて微笑んだ。
そっとスザクの前髪を掻き揚げて額にジノが唇を押し当てる温かい感触にスザクもつられて笑うと今度はその小さな唇を食んで、ちゅっ、と可愛らしい音を立ててキスをする。
視線が絡んでスザクが、ねぇ、とくすくすと囁く。

「ジノ、そのプレゼントいつになるんだい?」
「さあ、明日かそれともずっと先かも」
「なら僕は今すぐ君からもらえるものが欲しいよ」


そう言うとスザクはジノの肩口に垂れているカナリア色の少し長くなった三つ編みを掴んで背伸びをする。
引き寄せられた顔と顔は向かいあって、そのままスザクから唇を重ねた。
熱い吐息を折り重ねて、スザクは蕩けた瞳で魅惑に見つめると、ジノは頬を赤らめて驚いた。

「君とキスしたい、」


(それがプレゼントしてもらえるのなら大きな願いはいらない。君は消極的だなと言うかもしれないが、これが僕の一番のわがままだよ)


スザク!大声で叫ばれて抱き締められてからすぐにキスの雨が降ってくると、スザクはくすぐったいよ、とまた声を立てて笑った。










                                  


7月の花