朝、いつもの時間には目が覚めなかった。三度目のアラームが鳴ってようやく身体を起こすと違和感を感じた。
3秒ぐらいだろうか、ぼぅと虚ろな視線で真四角な部屋を眺め膝にかかっているブランケットを退けて立ち上がる。一瞬、足の感覚がなかったがしっかりと立てている。
スザクは寝癖で跳ねた髪を撫で付けらがらバスルームに向った。歯を磨いてシャワーを浴びて、洗濯されて汗のにおいなんてしない制服のシャツに袖を通す。
それからゆっくりと時間を持って、部屋を出た。朝食はとらなかった。食べようと想ったら十分に時間はあったが、なにもなかったから食べないで出ることにしたのだ。
午前中きっと腹が派手な音を立てるだろうが、我慢は出来る。それからすぐに、「あ、宿題忘れてた」と思い出す。あと軍で使っている緊急呼び出しのポケットベル(このご時世なのに、と思うが名誉ブリタニア人は例え軍人でも携帯電話を持たせてもらえなかった)もテーブルの上におきっぱなしにしてしまったこともここまで来てから、急に脳裏を掠める。
今日はなんだか集中力がないな、と思いながら目と鼻の先にあるアッシュフォード学園も正門をくぐる。おはよう、と言い合い生徒達がその門に吸い込まれていく。
それがなんだかおかしか視界で、ぐりゃりと歪んだのだ。おどろいたスザクは目を擦り、足を止めた。
おかしいな、と首をかしげてスザクはまた呟く。
けど、なんでもないと思い違えてスザクはまたゆっくりと歩き出す。すると今度はまた、朝感じたときのように足がふわふわとしている。感覚がない、というか雲の上を歩いているような気分だ。
けれど気持ちいいものではない。
ふわふわ、というか素足でどろを踏んでいるような気持ち悪さが足底から這い上がってくる。
はっ、とスザクは短く吐き出して額に滲んだ汗を手の甲で拭った。今日は晴天だが朝から汗を掻くような空ではなかった。それにやけにまだ低い場所にいる太陽が眩しく思え、スザクは嫌そうに翡翠色の硝子珠を二つ細める。
一歩が重い。どうしてだろう。昨日どこかで怪我でもしただろうか?
スザク自身は何もおかしなことはないと思っていた。だからなんともない、と疑うことなく校舎の中へと入っていく。
生徒たちが溢れていて、朝から騒がしかった。
学校という場所に通うのは久しぶりだ。スザクは少し、授業についていけていなかった。当然だ、他のこどもたちとは違い14歳の時から名誉ブリタニア人として軍内で過ごして彼にはいらない生活だったからだ。
だからと言ってスザクはめげなかった。誰よりも努力をして新しい環境に慣れようとした。
けれど、ここが自分の場所ではないという無意識の隔てからか、未だにここに来ることが不思議だった。
もうこの下駄箱に靴を入れるのは何度目だろうか。数えてなんかいない。
スザクの下駄箱は他の生徒より少し、いやだいぶ汚かった。それは誰かも知らないスザクとは何のかかわりもない者が汚していったからだ。
これでもましになった方だ。少し前まではゴミが突っ込まれ、スザクを貶す言葉がたくさん油性のペンで書かれていた。
何が書いてあったかもうよく覚えていない。イレヴンは帰れ、だったか、死ね、だったかもっと恥ずかしい言葉だったか。下駄箱から靴がなくなったこともあったし、机の中もあらされていて教科書が台無しなってしまったこともあった。
スザクはそうした苛めに悔しいとか悲しいとか、怒ることさえもしなかった。むしろこうした扱いの方が学校生活より慣れてしまっている。
ここの生徒たちは本当の名誉ブリタニア人への扱い方について、わかっていない。
もっと汚くて濁っていて、悪質なものだ。
それでもスザクはそれを受け入れていた。
僕は大丈夫だ、平気だ、何ともない。僕は名誉ブリタニア人で枢木スザクなのだから仕方のないことなのだ。
しかし、どんなに最低な扱いや生活を強いられてもスザクは自分を曲げなかった。
それだけが現在のスザクを真っ直ぐに、いやスザクには真っ直ぐ見える一本線を歩かせていた。
スザク自身は学校での出来事をまったく気にしてはいないが、彼、ルルーシュは違った。なるべく彼の迷惑にならないよう、そういった子供じみた悪戯を話さないようにしている。
お前はどうして怒らないんだ、どうして何も言わないんだ、俺がなんとかしている、なんでお前が謝るんだ、あいつらに謝らせろ。
などなど、一度知られてしまうとぐちぐちと説教の如く言葉を浴びせられる。
本当に気にしてないんだ、とからく笑えばルルーシュは腕を組んで仁王立ちする。ルルーシュは細身で喧嘩強いわけでも体力があるわけでもない。どちらかと言えばひ弱、なんだろう。
けれど彼の頭脳は僕の筋肉なんかよりとても緻密で賢い。それにルルーシュはプライドが高く自分が許せないと決めたことは許せない、と頑固なところがあった。
敬うべきのもの守るべきもの、見下すもの。それらが全てルルーシュには小分けされている。
ルルーシュにとってスザクはその枠の中でも特別だった。
それはスザクも同じで幼馴染という枠からはみ出した一人の少年だ。しかし、ルルーシュを特別視しているから知られたくないことがあった。
学校で苛めにあっているのもそうだ。いつの間にかそれらの行動がなくなったのは、ルルーシュのおかげだ。どう説得したのかは知らないが、彼らはスザクをことをちらりと軽蔑視するだけで悪さはもうしなかった。
ありがたい、とは思う。
けれど同時にルルーシュまで自分と同じ扱いがされていないだろうかと心配になる。
ようやく彼はこうして隠れながらだとしても普通の学生としてナナリーと暮していた。そんな中に僕が突然現れて掻き乱して、困らせていないだろうか。
ふとそんなことが気になって謝ったことがあった。
彼は笑って「そんなこと微塵も思ってない。俺が心配なのはお前がいつまでもはっきりと言ってやらないからだ」と、黒い絹髪を揺らし反対に怒られる始末だ。
ルルーシュは優しくて秘めた強さがある。僕なんかよりずっと確かであり、けれど危ないもの。
学生の模範生みたいな澄ました顔で背も高く、美少年と呼べる彼には他人からしてみれば非の付け所のないパーフェクト人間だ。
しかしスザクはルルーシュを知っている。幼い頃から今でもずっと、ブリタニアを憎んで憎んでぐつぐつとマグマが今にも噴火してしまいそうなほど煮ていることを。
僕はそんな幼い頃の彼に何も言ってやれなかった。そんなことは間違ってる、君に僕と同じことをしてほしくないと。
けど、それをスザクの飲み込んで胃に流し込んでしまった思い出がある。
僕がいえる台詞じゃない。ルルーシュには知られたくなかったんだ、父親を殺したなんて。
それは今でも同じだ。
僕は本当に平気なんだ。だから気にしないで欲しい、とスザクはいつでもそんなぼんやりとした視線を彼に向けていた。



三時限目は体育だった。全員がお揃いの体育着に着替え、グランドに出ると雲一つない気持ちのいい空が彼らを見守っている。
スザクは更衣室から出る時、なんだか目蓋が熱っぽく感じて眉を顰めた。
ようやく熱でもあるのかな、と気付いたがたっていられないほどではないと頷いてみんなの後に続いて部屋を出ようとすると、ルルーシュに止められた。
深い紫色の瞳が二つ熱く見つめてくることに、スザクは隠したものを暴かれそうになる怖さと魅惑を感じた。
昔から綺麗な色をして珍しかったからスザクはルルーシュの瞳が好きだった。
美しいだけではなく何か、魔を持っているような不思議な力を感じると、今は思う。
「どうかしたのか?」と聞いてくることにスザクは「何が?」といつもと変わらぬベビーフェイスで微笑んだ。これが女子なら思わず頬を染めてしまいたくなるほど、心くすぐられる笑顔になるだろう。
調子でも悪いのかと聞かれたが、スザクは首を振ってなんでもないよ、と彼の腕からすり抜けた。
ルルーシュはそう言われても半信半疑の眼差しでスザクを見る。それでも彼が大丈夫、と言っているのなら仕方ないかと目をその時は瞑った。
あれもそうとう頑固と我慢の塊だ。我慢していることさえにも気が付かない、そんな恐ろしい無意識を持っている。
始業の鐘が鳴ると、教師があらわれて生徒達はストレッチを済ますとグランド3周ランニングを命じられた。ルルーシュは出来ることならさぼりたい、気分が悪いと言って保健室に行こうか、と考えてたがスザクの背中が目に入ってやめた。
なんだか朝見かけてからスザクの様子がおかしい気がする。
ぼーとしていて人の話など聞いていない素振りだ。
スザクは足は速い。だからルルーシュは走り出した彼にランニングとはいえ追いつけず、小さくなっていくスザクをずっと目を離さなかった。
そして1周半すぎたところで突然スザクは走るのをやめて歩き出した。
どうしたんだ、とルルーシュが遅れた後ろから駆け出すとその場でスザクが膝から崩れて地面に横たわってしまった。驚いたルルーシュは「スザク!」と叫んで思いっきり走った。
ちょうどスザクの側にはリヴァルがいて、彼も驚きに慌ててしゃがみこむと、スザクを抱き起こして走ってくるルルーシュを見つける。
周りも一体どうしたんだ、と足を止める。倒れているのは枢木スザクか?どうしたんだ?怪我でもしたのか?そうひそひそと話しながら足を止めていた。
ルルーシュがスザクの顔を覗き込めば真っ青なプールのような色を浮かべおり、体操着は汗で十分に湿っていた。
スザクには意識はないようで、目は閉じられているが苦しそうに口が半開きになり喘いでいる。額の汗を自分の体操着で拭うと太い眉根を寄せて、呻いた。
それからスザクが意識を回復させたのは昼休みが過ぎた五限目だった。
開けられた窓から肌に触れる優しい風、横たわっている身体の下には柔らかい白いシーツが自分を包んでいる。
低い天井と漂ってくる匂いは消毒液の匂いだ。この匂いが嗅げるのがどんな部屋なのかスザクは知っていた。
軍の医務室だ。
けれど、そこはスザクが思って場所ではなかった。

「目が覚めたか?」

急に声が降ってきてスザクはぐるりと視界を巡らせた。
ベッドの横に付けられた簡易椅子に読書中のルルーシュがいた。

「ルルーシュ、僕、ああ、そうだー」

大声を出していないのに声が枯れている。
記憶が玩具箱をひっくり返してしまったようにばらばらだったが、ルルーシュと自分の状態を考えてようやく整理することが出来た。そうだ、僕は体育の時間にぶっ倒れたのだ。
突然目の前が真っ白になって息が喘ぎ、重力に逆らえなかった。じゃあここは医務室ではなく、保健室かとスザクは長い息を吐いた。
スザクが身体を起こそうとするとルルーシュが止める。

「お前、熱が39度もあったぞ?そんな体調でよく学校に来れたな、普通、熱でだるいし酷い場合は筋肉痛だったあるだろう」

ふぅ、と重い溜息を付くとルルーシュは分厚い本を閉じて腕を組む。その声は優しかったけれど、咎めているようで怒っていた。それにスザク枕に鷲色の髪を付けて笑って「ごめん」と呟いた。

「謝って当然だな、いくら体力馬鹿のお前だからと言って病気は勝てないんだ」

スザクはあの後、ルルーシュではおんぶできないため教員がスザクを背負って保健室へと運んだ。
汗と土で汚れた服を脱がせ、更衣室から持ってきた制服のシャツに着替えて体温を計ると38.7度だった。
呆れた馬鹿だ、とルルーシュは唇を尖らせる。
自分なら身体が動かせないし、学校なんて最初から休んでいる。それなのに彼は普通に学校にやってきて問題ないと自分で決め付けて、挙句の果てには体育でグランド一周半を走ったのだ。
また熱は薬のおかげで一時的に落ち着いているが、今日はもう帰って休みなさいと言っておいてくれ、と保健医がルルーシュに伝言を託している。だがルルーシュが最初に言わなくてはと思ったことと今思ったことはそれとは違う。
馬鹿だ、とまた呆れた。
一度ルルーシュがスザクから視線を落とした。

「ごめん、僕大丈夫だと思ったんだ。少し、ぼんやりしてたけど、こうなるとは思わなくて」

なんだかばつが悪くて声が小さくなっていく。視線がまた出逢うと、今度はスザクが窓へと目を向けた。まだ日は昇ったままだ。
彼はずっとここで自分が起きるのを待っていてくれたのだろう。僕なんて放っておけばよかったのにどうしてー、そこまで考えてスザクは唇を開いた。

「…心配してくれたの?」

小さな沈黙の後、思わずそんな台詞がこぼれた。ルルーシュはスザクからそんな台詞を言われて、切れ長い瞳を大きくした。だがすぐにすっ、と落ち付いて唸るように言う。

「当たり前だ。ただの熱だけでよかったがももしもっと重いものだったらと思ってゾッとした俺の身のことも考えろ。俺だけじゃないさ、リヴァルだって心配してた」

するとルルーシュは優しく、怒っているに声を震わせて言った。
目を覚ましてくれた安堵と、どうしてこんなになることに自分で気がつけてないんだという苛立ちが篭められている。
ますます自分が悪い気がしてスザクは口ごもった。自分だけが困るのは構わないが自分のことでルルーシュが気持ちを乱すのはもったいないと思った。
彼は本当に心配し、傍にいてくれた。嬉しいことだけど、僕には似合わなくてむず痒い。誰も僕のことを気にしていない。もしこうしてルルーシュと再会しなければ、僕がどんな扱いをされていようが死んでいようが心配する者などは誰一人現れなかったのだ。

「ごめん、」

言わなくてはならないように何度目かの謝罪を零す。だがルルーシュは首を振って「もう謝るな」と溜息交じりに言う。

「僕、もうだいじょうー」

大丈夫だから、と言おうとした唇が何か熱いものでふさがれる。カーテンが大きく舞い踊る中で、ルルーシュが音を立てて椅子から立ち上がり横になっているスザクに覆いかぶされるとその勢いのままキスをした。驚いたがそれがルルーシュからのキスだと、ようやくわかるとスザクの心臓が跳ね上がった。
唇はすぐに離れたが、彼のライラック色の泉はスザクを沈めたままだ。幽閉させているように、それから逃れられない。
怒り揺れる美しい湖水にスザクは陶酔した。

「大丈夫とか言うな。大丈夫じゃないのにそういうのは嘘つきだ。俺には言っていいんだ、俺はお前が好きだ。お前もそうだろ?なら俺を見てくれ」

ルルーシュ、見てるよ。君しか見えてない。なんて言ったら怒られるだろうかとスザクは言葉を噛み砕いた。
ルルーシュが言いたいのはそういうことではないから。
スザクは見つめらているのが心地良くて、口端を上げる。

「もちろん、僕も好きだよ。僕はー、うん、君にはちゃんと言うよ。心配かけたくないから」

スザクはしわがれた声でそう告げて、にっこりと熱っぽく微笑んだ。ルルーシュは困ったようにつられた笑うのを見て、スザクは彼の髪に触れた。
その手を彼が取ると、またキスが降ってくる。今度は乱暴なものではなくて、何度も啄ばむように音を立てて何度も何度もー。
温かくて、優しいキスだった。
気持ちいい柔らかさにスザクは短い睫毛を震わせて、目を閉じる。
僕は嘘を付いている。けど人を傷付ける嘘じゃないから黙ってきた。
ルルーシュも嘘を付いている。それは自分たちを守るためら必要だった嘘だ。しかし本当に僕の嘘はそれだけだろうか。
僕が傷つくからこの嘘を守るんだ。ずたずたに引き裂いて、僕の心を暴くからだ。
(ああ、勿体無いな。ルルーシュのキス)
こんな僕のために、罰がほしくていつかはその果てに死ねることをこっそりと思っている僕なんかには勿体無い鮮やかな色彩。



それでも嬉しくて、心が焦がれるのは僕がルルーシュを好きだからだった。







                                   


NOT COLOR