「スザク、キスしてもいい?」と、唐突に言われたのはほんの一秒ほど前だ。僕は彼と向き合いで小さなバスタブに入っていて、彼は爛々と輝く青い瞳でそうお願いしてくる。
白いお湯からは薔薇の香りがする。僕の趣味じゃない、ジノが持っていた入浴剤だ。湯気が立つ中で、僕はそのお願いをぶっきらぼうに断った。「だめ」と響く声にジノは頬を膨らませて、僕との距離を詰めてきた。
湯から出ているジノの肩は僕よりも逞しい。僕はどちらかと言えばなで肩だ。ちょっと悔しい、と思ってしまう。けどジノが相手では誰だって劣等を抱くだろう。名門貴族でナイトオブスリー。誰もが認める実力と名声を持っている。そして彼自身も自信に満ち溢れていて、太陽見たいにギラギラと輝いているのだから。それをうらやましい、と思うのはきっと僕だけじゃない。
そんな彼がどうして僕と、と思うのはもう飽きてきた。思ったって質問したって、彼は「スザクが一番だから」と答えるだけ。そして僕自身も「僕はジノが好きだから」となってしまう。
これは一体恋なのか、愛なのか。それとも恋人ごっこなのか。
ジノは僕の腕を湯の中で捕まえると、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。お湯が揺れてバスタブの外へと少し零れる。
濡れた両手で僕の頬を包み、ココア色の髪の毛をオールバックにするように掻き上げる。剥き出しになったおでこにちゅっ、とかわいらしいキスをしておでこに自分のおでこをくっつけてきた。
「スザクのキスはどんな味がするんだろうな。初恋みたいな甘酸っぱさかな?それともあっさりとしてる?あ、それかもっと大人の味かな」と、言葉を羅列する。
それに僕は耳を真っ赤にすると、「知らないよ」と瞬きを繰り返して短い睫毛を震わせた。知らない距離ではないのに緊張する。彼なら力づくでもいやだいやだという僕の唇を奪ってしまえるのだ。

「ジノは意外にロマンチックだよね。キスなんて、何の味もしないよ」

ただ触れて、おしまい。その後、心が触れ合うかで味も色も決まる。
(そうだな、彼はー)僕はふいに最後にしてキスを思い出して、唇の表面を親指でなぞった。
(血の味だったな)
彼とした最後のキスはそんな色気のないものだった。
そんなことを思い出して、僕は自嘲する。ジノは「何笑ってるんだ?」と顔をのぞこんできたけれど、僕はなんでもないよ思い出し笑い、とあしらった。ふーん、と彼はそれ以上深く追求はしなかった。
それがジノのいいところだと思っている。距離と距離をちゃんと計り、踏み込んでくるラインを知っている。けれど、たまにそれを超えてジノは僕の心を脅かす。
「けど私はな、スザク」彼の音色のいい声が僕の鼓膜に響いてくる。強く、美しくて無邪気な音。

「大好きなものは先に食べてしまいたいんだよ。そんなに気も長くない」

そう言ってまた、額に唇を寄せて「どういう意味かわかる?」と微笑んだ。この答えには僕はにやり、と笑うと「大丈夫、僕は好きなものを後に残して最後に食べるんだ。気長に待つことも出来る」
そう返してカナリア色の髪が白い湯の中でゆらゆらと漂っているのを見つめて僕はくすくすと笑う。
彼はまたむっと唇を尖らせて、「スザクは意地悪だ」と拗ねた。僕はそんな彼の頬に手を伸ばし、今度は僕が両手で包みこんで距離を縮めた。足と足が触れ合って、ちゃぷんと水音がはねる。
黄金色の髪は艶々で、指に絡めると絹みたいに柔らかい。僕なんかとは大違いだ。
スザクのエメラルドグリーン色の瞳が水の中に溶け込んでしまったようにゆるゆると滲んで、鮮やかな色をしているのをジノの瞳は映し、綺麗だと心底思った。

「けど、きっと我慢できなくなるのは僕の方からかも」

なんて傲慢なんだろう。なんて意地悪なんだろう。ジノを振り回して、最後にはきっと捨てるか捨てられる。僕は酷い人間だ。そんなこと、僕自身は最初からわかっていることなのに、ジノを愛さずにはいられなかった。
好きになってしまったことを許して欲しい。この罪が、僕が決めたルールなのかもしれない。
それを押し付けたことによって、ジノがどんな風になっていくかも知らずに。
ジノはスザクが思っているほどスザクのことが好きなことを知るのは、きっともっとずっと後か、それとも知らないままになるかもしれない。






                               

ねぇ、キスして?