生臭い匂いがする、と鼻腔に溜まった香りに眉を顰めた。辺りはもう薄闇に包まれて天には丸い月が白く輝いている。
夜会の途中で抜け出して車を呼ぼうかとも思ったが、少し酔いを醒ますために歩くことにしたがこういう夜はあまり出歩かない方がよかったかな、と黒いマントを翻して人通りの少ない街路へと抜ける。街灯の明りは頼りにならないほどの淡さだ。抜けた道からは暗い森に繋がっていたが構わず彼は足を進めた。
もっと奥から濃い匂いがする。思わず喉が渇いて生唾を飲んでしまうほどの食事の匂い。今しがた食事を済ませてきたというのにどうしてもこの漂ってくるものに惹かれずにはいられないのは自分がそういう異質な生き物だからか。
どちらにしても最近は同族の間でも物騒なことが続いているため、気にしないわけにはいかなかった。
月夜に照らされた金色の髪と蒼い瞳はどんな暗闇でも輝くほどの彩を放っているほど美しい。どこからか梟の声がし、木々が冷たい風に鳴いていた。その風が運んでくる匂いとは人間の血だ。
それも古いものではなくまだ新鮮で若々しい人間のものだろう。嫌な予感はしたものの、彼は茂みの中を大股で進む。だんだんと近づいてきているのか、辺りは血の匂いで充満している。だがそれは自分や獣たちがわかるものであって人間には特定できないものだった。
姿形は人間たちと同じではあるが、生きてきた年数はまったく違う。長身の細身ではあるが逞しい体格のその少年の身なりはどこかの貴族なのか、着衣しているものは全て極上の生地のものばかりだ。
そんな貴族の子息がこんな宵に森を一人散策するなど奇行としか見られないだろうが、彼らの種族にとっては夜闇こそが一番生き生きとできる時間だった。
だからと言って太陽の下で歩けないわけではない。ただ少し苦手というだけで人間と変わらない生活を送ることが出来る。どうして必要不可欠にものがあるということだけを除けば食事だって同じものを摂取できた。
その生きていくために絶対にしなくてはいけないこと。
それは血を飲むということだった。
光を嫌い人の生き血を吸うものたちのことを古くから吸血鬼、として伝記にも記されているがそんなものは架空の生き物だと人間達は忌み嫌い遠ざけてきた。
しかし現実には人の世に溶け込んで生きているのだ。この少年も人の血を主食としている吸血鬼である。年は十八という外見には見えるが実際の年齢はもう三百歳を越えていた。それでもまだまだ仲間からしてみれば若い者の内に入るほど、吸血鬼たちは長寿だった。
吸血鬼だからと言ってこっそりと暮すのではなく、堂々と人間たちと暮らしている。会社を経営するものもいれば歌手や俳優。極普通の暮らしを送っていた。人の血を啜る悪鬼と思われているが、本来はそうではない。中には気性の荒い危険に者もいるが、そんなものは人間たちだって一緒だ。犯罪を犯すもの、非合法な仕事に手を出すもの。
よっぽど私たちの方がしおらしく、ルールを守って生きているとさえ思うことだってある。
さくりと踏む草の音が止んで、彼は視線を樹の根元へ落とした。

「あーあ、派手にやっちゃって」

溜息交じりにあきれた口調でそう零し肩を竦めた。彼の視線の先には一人の少年が倒れており、まだ容姿からすると十五ぐらいだろう。
もうその少年に息はなく、無残にも腹を抉られて大量の血液が地面を真っ赤な絨毯にしていた。強烈なその匂いに思わず鼻を摘みたくなる。
美味しいはずの飲み物ではあるが、ここまで惨殺にされていると気分が悪い。もっと丁寧に上品に食事を取れないものか。
吸血鬼とは人間から血をいただくだけで、その肉を食らったりはしない。そんなことをするのは本当の悪鬼か獣ぐらいだろう。
だからこの現状は異常だと、彼はまた声を唸らせる。
今宵だけではないのだ、この異常事態が。実際に目の当たりしたのはこれで二度目だ。しかも最初のときは同じ吸血鬼がはらわたを掻き出させて殺され、しかも血を吸われていた。
同族人間問わずに殺人を犯している者がいることは実に恥ずかしいことだ。先日から吸血鬼による吸血鬼のためにある評議会でもその話題で騒がれ、一刻も早くその吸血鬼を処分するようにと発言されたばかり。
こんなにも派手にやっているというのにその吸血鬼は自分の痕跡一つ残さないのだ。もしかしてまだこの場にいるのかもしれない、と死体の様子からしてみるが辺りは静寂に包まれており、同族の気配を探すが殺気に満ちたものは感じることはなかった。
(可哀相だけど、これはきっと明日の朝にでも人間が見つけるだろう)
そう思った瞬間だった。
人間の血の匂いの中にもう一つ、違う匂いが混じっていることに気が付いて目を細めた。夜に生きる種族たちはどんなに暗くても、昼間と同じぐらいの変わらない視界を見ることが出来る。
そこで捉えたものはもう一人の少年だった。
まさか二人も殺されたのか、と思ったがそこから漂うものは死体の匂いではなくまだ息ある血の香りだ。それも人間のような甘いものではなく、もっと酔ってしまいそうな自分たちと同じ濃度のあるもの。

「おい、」

まだ死んでいるようではなく、ただ気を失って倒れているようだった。しかし血みどろで大けがをしているんじゃないかと、彼は急いでその少年を抱きかかえると、思わず息を飲んでしまった。決して美しいとはいえない顔立ちではあるがかわいらしい、と言える童顔で軽い身体だったのだ。