夢を見るのが怖いと思った。夢を見た後に目が覚めて、目蓋を閉じた瞬間の暗闇が怖いと思ったことが、君にはあるのだろうか。
僕はいつだって、そうだった。
路地裏の猫はそれでも愛を請う V
僕の思い出にあるのは、彼と過ごした貴い1年だ。泣いて笑って喧嘩して、実に楽しい時間だと思っている。幸せとは、ああこういうことを言うのかなと何度も思った。
僕には幸せが望めない。
それでも、あの瞬間は常に幸せだったんだ。その思い出だけは塗り潰してしまいたくなくて、ずっとずっと大切に色褪せないままにしてきた。
僕は幸せになんかなれない。それでも、君とのことを思い出す時だけはその時間が許されますようにと、神さまに祈った。
ルルーシュ。
君は今でも元気だろうか。
怖い夢を見たとき、目蓋の裏に君を思い出す。
そうすると、心も温かくなれる気がしたから。
薄っすらと視界が滲む。淡い色を映し出した濃い緑色の瞳は、瞬きを繰り返して大きく息を吸って長く吐き出す。
トクントクン、と正しいリズムを刻んでいる心臓。
指先を動かせばちゃんと反応する。
もう一つ瞬きをして、瞳孔を左右に揺らした。柔らかいベッド、手当てされている傷。それらは自身がやった望んだものではない。
記憶が乏しいことに気付き始めると、ここがどこなのかという問題よりも「生きている」ということを残念に思うのが先だった。
(あのまま死ねばよかったのにな)
スザクは腕を上げて頭に触れると、髪の毛の間から生えている三角の耳を確かめる。朝が来るといつも触れてしまう。今日も僕は猫のままだ、と落胆するのが彼の始まりだった。
長い間眠っていたようで、もしかして全てが悪い夢だったのではないかと。
(ここはどこだろう。なんだか……すごく立派だ)
一般家庭ではない、ということがスザクの目から見ても分かる。ベッドのサイズだって一人で使うには広すぎているし天蓋付きだ。シーツだって心地良い肌触りで不快感なんてない。
窓が開いているのか真っ白なカーテンがゆらゆらとしている。
上半身を起してみると、腹部に痛みが走り顔を顰めた。着ていた服はどこにもなく、包帯を巻かれた身体と清潔なズボン一着。
どこの誰に拾われたのだろうか、という不安はなかった。むしろ、またどこの奇怪な人間なんだろうな、という呆れにも似た気持ちになった。
時間にして昼過ぎぐらいだろうか。雨はもう降っていない。香る風にスザクは深呼吸をする。隠れ潜んでいる場所ではいつも泥臭い匂いばかりで、花や緑の香りなんてなかった。長い尾がやんわりと、居心地の良さに自然とシーツを叩いていた。
窓も開けられたままだし、逃げるなら今のうちなのだろうが、そうは出来なかった。たぶん、あの雨の日に拾ってくれた人は悪い人ではないという気がする。
人間でも猫でもない者を見て、気色悪いと思うのは当然だ。前にもこうして拾われたことがあったけれど、その時とは少し環境が違っていた。
こんな自分が居て得になるわけがないのに、わざわざ拾って傷の手当もしてくれている。例え悪い人だったとしても、お礼一つもなく去ってしまうのはあんまりじゃないかな、とスザクは悩む。
歓迎させるわけがない、ということは分かっている。
だから家主が現れた時に感謝をして服を返してもらって、出て行こう。
簡単に放してくれるといいけど、とも苦笑する。
しばらく前の『飼い主』には助けてもらったけれど良い印象はないからだ。
スザクは俯いて、もう一度やはりあのまま死ねばよかったのに、と暗い言葉を落とした。悲しそうに、耳までもが垂れてしまっている。
望むものは唯一の安らぎ。
誰にも愛されることなくて、自分からも愛することしないままで死ぬことが出来たらどんなにいいだろうか。孤独に苛まれて死ぬことは寂しいけれど、こんな僕などいっそそんな死に方が似合うのかもしれない。
しかし生きたい、という願いもある。
誰かのために生きて死んでいくことが、きっと罪滅ぼしになると信じている。可能性がゼロにならない限りの努力をしたいから、スザクは小さな島国を出た。
生きたいとも死にたいとも、同時に思う。
こんな僕、誰が愛してくれるの。
こんな僕から、誰を愛せばいいの。
膝を抱えて顔を埋める。
小さな僕が犯した罪を世界は許しはしない。今もずっと、「お前がいけない」、と頭の中でずっと攻め立てられている。いつかその声が聴こえなくなる日がくるんだろうか、と虚ろに願う。
それでも僕を優しく照らしてくれるのが、ルルーシュの存在だった。彼と過ごした過去さえあれば、どんなに辛くても生きていけると思えるほどに強くなれた。
幼い彼と僕は、最初はまったく馴れ合えなかった。
日本に留学に来たという彼はこの国からしてみれば珍しい異国人で、近寄りがたいものがあった。彼からの態度もいつだって傲慢で、心を開こうとしない。それでいて、強くわけでもなくて喧嘩をすればいつもやられっぱなし。
そんなルルーシュを見ていて、馬鹿だな、と苛立っていた。
大国であるブリタニアの皇子を虐めること事態、それを知られれば大人たちは黙っていないだろう。考えて行動しない他の子どもたちにもスザクは呆れる。
しかしルルーシュは決して、誰にも言わなかった。それを随分経ってから聞いてみたことがある。すると彼は、「ブリタニアが嫌いだから」とだけ答えてくれたのを、覚えている。
僕らがどうやって仲良くなったのかなんて、遠い昔に感じる。いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていた。
(ルルーシュ)
きっと君はこの国のどこかにいるんだろう。
きっと僕のことなんて、忘れてしまっていることだろう。
(その方がいい。彼のためにも、僕だって)
こんなにも風は優しいのに、心はどんどんとささくれて行く。
睫毛を震わせて目蓋を閉じてもう少し眠ってしまおうか、と考えた。今考えても、どうすることも出来ないのだから。
すると空気の流れが変わった気がして、尖った耳がピンと立ち上がる。
(誰か、来る)
微かに聞こえる足音がこの部屋の扉の前で止まり、扉が軽い音を軋ませながら開くのをスザクはその翡翠色の瞳で見つめた。
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